霊が見えちゃう能力は要らないけど、ウイルスが見える能力がほしい今日この頃、皆さまどのようにお過ごしでしょうか。
そんなわけで、そろそろ自粛解除が期待できる状況の中、超久しぶりに「シックス・センス」を観ました。
こうして改めて観て思ったのは、M・ナイト・シャマラン監督、出来る子だったんですね・・・ってこと。
主な概要
- 公開:1999年8月(日本1999年10月)
- 監督:M・ナイト・シャマラン
- 脚本:M・ナイト・シャマラン
- 制作:フランク:マーシャル、キャスリーン・ケネディ・バリー・メンデル
- 制作総指揮:サム・マーサー
- 出演者:ブルース・ウィリス、ハーレイ・ジョエル・オスメント、オリヴィア・ウィリアムズ
- 音楽:ジェームズ・ニュートン・ハワード
- 撮影:タク・フジモト
- 編集:アンドリュー・モンドシェイン
あらすじ
ある夜、小児精神科医のマルコム・クロウ(ブルース・ウィリス)は、「病を治してもらえなかった」 と恨みを持つ且つての患者:ヴィンセントにより、銃で撃たれてしまいます。
1年後、ヴィンセントを助けられなかった思いに苦しみ続けていたマルコムは、ヴィンセントに似た症状を持つ少年:コール・シアー(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の治療を行うことになります。
この子を治せばヴィンセントを治せなかった苦しみから解放されるかもしれないと、マルコムはコールの治療に力を注ぐのです。
コールのカウンセリングを続ける中で、マルコムは、コールの特殊能力の正体が何なのか、そしてそれが何のために存在するのかを探り当て、コールにその意味を伝えます。
そして、コールは、マルコムからのアドバイスを実行することで、自らの居場所を見つけることができるのです。
同時に自身が何者であるかを知ったマルコムは、全ての苦しみから解放されるのです・・・。
ここから感想
シャマラン中毒にハマる!
M・ナイト・シャマラン監督は、このシックス・センスの大ヒットにより確固たる地位を築くことになりますが、もともとこの監督は、作品の評価が異常に乱高下するタイプで、酷く低評価を受けることもあれば、絶賛されることもあったりします。
とにかく作品ごとの評価が大きくブレる人で、監督の持つ「独特の間」だったり、「笑いのセンス」なども、非常に好みの分かれるところです。
しかし、これに一度ハマってしまうと止められない中毒性を秘めているのも確かで、私もシャマラン中毒にドップリとハマった口です。
この監督の場合、あまり細かいアラをつつくのではなく、シャマラン映画が醸し出す独特の雰囲気を楽しむことの方が正しい見方だと思います。
そういった作品群の中でも、この「シックス・センス」は、比較的毒気が薄く、癖のある味付けもほとんどない、シャマラン監督にしては珍しくちゃんと仕上げてきた作品です。
ですから、本来のシャマラン好きにとっては物足りない作品かもしれませんが、シャマランの世界にこれから入られる方には最適な作品だと言えるでしょう。
恐怖の足跡との共通点
映画評論家の町山智弘さんが、この映画は、「恐怖の足跡」のパクリだって言ってました。
私は、この「恐怖の足跡」と言う映画を見たことなかったので、これを機にDVDを買って見てみたんですけど、まずパクリ云々の前に、この映画の素晴らしさに驚きました。
ホラーと言う器を借りたアート系の作品で、モノクロが織りなすシュールな映像美は、後々の映画作家達に多大な影響を与えてたことが伺えます。
シックスセンスとの比較については、確かに、ラストのどんでん返しの構図こそ同じですが、映画そのものの雰囲気がまるで違うので、私が見た限りでは、シャマラン監督がパクったとは全く感じませんでした。
パクったと言うより、監督の記憶の片隅にこの映画の衝撃が残っていて、それを改めて現在の映像表現で伝えたかった・・・そういった衝動だったのではないかと思います。
それにしても、「恐怖の足跡」は、ホラー映画を語る上で貴重な傑作ですので、機会があれば是非一度ご覧になることをお薦めします。
「衝撃のラスト」の意味
この映画は、公開当時、「衝撃のラスト」とか「結末を絶対に言わないでください」とか、とにかく最後のオチばかりがクローズアップされた作品でした。
しかし、私としては、映画全体を見通してみて、あの「衝撃のラスト」と言われるほどのオチが、実はそれほどの深い意味を持っているわけではないと感じています。
映画の本質は、あのオチの直前で全てが語られていて、仮にあのオチがなかったとしても、この映画が言いたかったことは十分に伝えられているからです。
映画タイトル「シックス・センス」とは何を意味しているのか?・・・を考えれば、この映画が何を伝えたいかがおのずと見えてくるのです。
まとめ【シックス・センスの意味】
この映画における「シックス・センス」とは何なのでしょうか。
この映画が伝えたい「第6番目の感覚」とは、どのようなものなのでしょうか。
映画を順番に紐解いていくと、その意味が明確に理解できます。
もちろん、コールが持っている「幽霊が見える感覚」と言うのも「シックスセンス」の一つではあります。
ただ、それは単に表面的なものに過ぎず、監督によるミスリードの要素を多分に踏んでいます。
見る側に、「シックス・センス=霊視能力」と誤解するように仕向けている感が強いのです。
しかし、この映画における「シックス・センス」とは、コールの特殊能力のことだけを言っているのではありません。
それは、誰しもが幸福を得るために必要としている能力です。
その答えは、コールやコールの母親、そしてマルコム・・・それぞれの真理の中に明確に語られています。
例えば次のような・・・
- コールは、自分が持つ特殊能力が、ただ自分をおびやかすだけでのものであり、今すぐにでも消えてほしいと願い続けています。
しかしそれが、「救われない魂を救済するための能力」であるとマルコムから気づかされたとき、彼はそれを実践することで、ようやく深い暗闇から解放されるのです。 - コールの母:リンは、コールの持つ能力を理解することができずに悩み苦みます。
何度か挫折しそうになりますが、それでも最後までコールを見捨てることなく、コールを励まし続けます。
そして、コールの持つ能力を理解したとき、彼女自身もコールに救われ、我が子への愛をより一層深めることができるのです。 - マルコムは、冒頭で銃に倒れますが、ゴーストになってもなお自分に銃を向けたヴィンセントのことを助けられなかったトラウマに苦しみながらも、コールを助けることこそヴィンセントへの贖罪であると悟り、懸命にコールに寄り添います。
そして、それを叶えることができた時、彼自身もコールに救われ、彼は永遠の安らぎを得ることができるのです。
・・・こうして見てみると、三者に共通している点が浮かび上がってきます。
それは、「誰しも生きている意味と役割を持ち」そして「誰しも他者に助けられて生きている」・・・と言うことです。
「霊視能力」や「どんでん返し」は、映画を彩るための衣装に過ぎません。
この三者の真理こそが本当の意味での「シックス・センス」なのです。
映画は、三者の思いをラストシーンで伝えきると、静かに幕を閉じます。
素晴らしいエンディングです。
シャマラン監督、本当にやれば出来る子なのです。
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